日本にバレーボールが伝来したのは1913年のこと。
バレーボール創設が1895年だから、アメリカに遅れること18年後のことである。

元々、動きの激しいバスケットボールから派生したバレーボールは女性や子どもや高齢者も気軽に楽しめる室内スポーツを掲げ、日本に伝来した頃はルールすら確立されていなかった。

ヨーロッパにバレーボールが波及したのは1920年だから日本に遅れること7年後のこと。
日本の方が少しだけ早い。
以後、世界的に普及したバレーボールは1952年に第一回の世界選手権が実施され、そして1964年、東京オリンピックにて初めてオリンピック正式種目として認定される。

全日本女子バレーボールチームは、栄えあるオリンピック第一回のチャンピオンチームである。
そう、“鬼の大松”こと大松博文監督が率いた、かの有名な東洋の魔女である。ちなみにこの時の日本とソ連との優勝決定戦では視聴率66.8%を記録した。これはスポーツ中継としては歴代最高となっている。

以後、日本のバレーボールから様々な技術が開発されていった。

コンビネーション・バレーは日本が開発したものであり、回転レシーブ、時間差攻撃など日本独特の技術が編み出された。



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・日本で生まれた技

回転レシーブ
時間差攻撃
Aクイック
Bクイック
Cクイック
Dクイック
フライングレシーブ
天井サーブ
ゼロ・クイック


バレーボールが国際的に普及し始めた黎明期当時、大松博文監督率いる日紡貝塚女子バレーボールチームは1961年の欧州遠征で22連勝し東洋の魔女と呼ばれる。その3年後、初めてオリンピック競技となった東京オリンピックにて同チームのメンバーを主体とした全日本で出場し、5試合で落としたセットは1セットのみという圧倒的な力で金メダルを獲得した。

1962年の世界選手権で初優勝を遂げていた日本の焦点は宿敵・ソ連にどこまで迫れるかだった。この時開発されたのが、柔道の受け身に似た回転レシーブで、手元で微妙に揺れる変化球サーブと併せ最終戦のソ連との全勝同士の対決はセットカウント3-1で勝利し優勝した。

日本の団体球技が世界大会で優勝するのはこれが初めてであったため、社会的なニュースとして日本で大きく取り上げられることとなる。


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また、日本におけるバレーボール=女子という図式を覆したのは全日本男子である。
松平康隆監督率いる全日本男子が1972年のミュンヘン・オリンピック競技大会に向けて考案したのが時間差攻撃。おとり役のアタッカーがジャンプして打つとみせかけて相手ブロック陣の注意をそらせ、そのすきに別のアタッカーが攻撃をする。 トスのコースや実際のアタッカーとおとり役の位置、タイミングなどの違いによって多彩な組み合わせがある。
また、おとり役と実際のアタック役を1人で行なう「一人時間差」も全日本男子発で森田淳吾さんが発案。

全日本男子はこの大会で金メダルを獲得。1968年のメキシコオリンピックでの男女アベック銀メダルを上回る快挙で、女子を始めて実績で上回った。
尚、全日本男子の金メダルはこのミュンヘンオリンピックが今のところ、最初で最後となっており、次の東京オリンピック出演は全日本男子にとって2008年以来、実に13年ぶりとなる。

全日本女子は距離の長いBクイック「ひかり攻撃」などを駆使した速いコンビバレーで1976年に金メダルを獲得して以来、オリンピックでの金メダルは44年途絶えている。



・歴代の主な主将

1960-1970年代

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堀江方子選手
河西昌枝選手
吉田節子選手
松村勝美選手
飯田高子選手
前田悦智子選手
矢野広美選手



1980年代

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横山樹理選手
小川かず子選手
江上(のち丸山)由美選手
石田京子選手
中田久美選手
丸山(旧姓江上)由美 選手(再)
佐藤伊知子選手



1990年代

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佐藤伊知子選手
中西千枝子選手
大林素子選手
中西千枝子選手 (再)
多治見麻子選手



2000年代

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江藤直美選手
熊前知加子選手
高橋みゆき選手
吉原知子選手
竹下佳江選手
荒木絵里香選手



2010年代

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荒木絵里香選手
木村沙織選手
岩坂名奈選手
荒木絵里香 選手(再)



・歴代全日本女子監督

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前田豊さん 1960年
大松博文さん 日紡貝塚 1961 - 1964年
船山浩志さん ヤシカ 1966 - 1967年
前田豊さん(2) 日本文化出版 1967年
山田重雄さん 日立 1967 - 1968年
小島孝治さん ユニチカ 1970 - 1972年
船山浩志さん(2) ヤシカ 1973年
山田重雄さん(2)日立 1973 - 1978年
小島孝治さん(2) ユニチカ 1978 - 1982年
生沼スミエさん 日立 1982年
米田一典さん 日立 1983 - 1984年
小島孝治さん(3) ユニチカ 1985 - 1986年
岩本洋さん 日立 1987年
山田重雄さん(3) 日本の旗 日立 1988年
宗内徳行さん 日本体育大学 1989年
米田一典さん(2) JVA 1990 - 1993年
横田忠義さん JVA 1994年
小島孝治さん(4) ユニチカ 1995年
吉田国昭さん  ユニチカ 1996年
葛和伸元さん NEC 1997 - 2000年
吉川正博さん NEC 2001 - 2002年
柳本晶一さん 2003 - 2008年
眞鍋政義さん 久光製薬 2009 - 2016年
中田久美さん 久光製薬 2017-



・テレビスポーツとしてのバレーボール

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また、日本のバレーボールはテレビとの二人三脚で成り立ってきた。
1964年の東京オリンピックにおけるソ連との優勝決定戦では視聴率66.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録し、スポーツ中継としては歴代最高となっている。以後、日本代表のバレーボールはテレビのゴールデンタイムに放送されるスポーツの一つである。
アイドルタレントを競技場に招いてパフォーマンスを披露したり、選手へのインタビューを行ったりするなどエンターテイメント化している。これはスポーツエンターテイメントを標榜とするFIVB(国際バレーボール連盟)路線に沿っているともいえるが、日本国内での圧倒的なニッポンコールなどの大歓声による不平等性を踏まえ、近年では全世界共通でFIVB主導による会場応援が主体となっている。

かつてはFIVBの年間収益のうち8〜9割は日本での利益で、ワールドカップなど日本で国際大会が開催される際は、日本のテレビ局から多額の放映権料を受けている。しかし、世界の経済が日本から中国などを中心とする流れや、世界選手権主催国が負担する移動費など莫大な経費負担を踏まえ、今後、オリンピックを除く世界三大大会をはじめとする各種国際大会の実施はアジア諸国へ拡散される見通しとなっている。


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世界の中心が中国に進みつつある今、今後、日本のバレーボールがどう進化し、どのような方向に進むのか注視したい。